今年で第5回目となる「北欧モノ」。このBLOGではイベントに合わせて、北欧で活躍したデザイナーやメーカー、モノについての物語を深く、ご紹介させていただきます。当店のサイトにいらしてくださった方々はもともとモノ好きの方だと思います。たまたま見つけて下さった方もいらっしゃるかもしれません。そんな方々に、このBLOGを読む事によって、今よりもっと"モノ"について興味や愛着を持っていただけると嬉しいなと思います。

今回はガラス界の革命的アーティスト、Erik Hoglund(エリック・ホグラン)についてのご紹介をさせていただきます。

好奇心旺盛な少年

エリック・ホグランは1932年に南スウェーデン沿岸の都市、カールスクルーナで生まれました。学校で彼は絵画や工芸、スポーツに興味を持ちはじめますが、12歳になったとき彼は糖尿病になってしまたっため、スポーツよりも室内でできる芸術の道に歩んでいきます。

「私は、学校を抜け出して一人で絵を描きに行ったことがよくあったんだ。当時、私は理論的な科目で散々だった。私はむしろスケッチブック片手に、まったく違う世界を放浪してみたかった。できれば、漁師が本による学習などあまり意に介さない群島でね。そこで大事なことは、手先の器用さだった」

勉強は苦手だったようですが、自分の好きなこと、得意な事をひたむきに追求していきます。自分の思うままに、自由に、とことん学びたいという気持ちを常に持っていました。

その後、彼はスウェーデン・ストックホルムのKonstfack(現在の国立芸術工芸デザイン大学)で彫刻を学ぶことになります。

Konstfack(コンストファック)での学び

エリック・ホグランが16歳のとき、ストックホルムのKonstfack(国立芸術工芸デザイン大学)で美術を学び始めました。当初、彼は絵画を学んでいましたが、すぐに専攻を彫刻に変更しました。趣味はサイクリング。多趣味で感情豊かな人だったようです。

「私にはお金がほとんどなかったけれど、豚にやるバターミルクのいくらかを私に分けてもかまわないと思ってくれた、何軒かの親切な農家にいつも会えたよ。もし私が彼らの馬の絵を描けていたら、夕食と寝床にありつくことができたんだけどね」

21歳のとき、エリック・ホグランは美術学校のクラスメイトと結婚し、6人の子どもができました。家庭生活はしばしば、彼のモチーフに影響を与えたようです。

BODA社(ボダ)へ

1953年にボダ社のディレクターだったエリック・ローゼンは、若いガラスデザイナーの求人を美術学校に出しました。そこでエリック・ホグランは、ガラスについてはほとんど経験がなかったにもかかわらず、センスが認められ選ばれたのです。彼は、ラフにバックパックを持って電車で出勤しました。この姿を見て、この時は誰も彼が20年間もボダ社に在籍し、ガラス産業に革命を起こす人だとは思っていませんでした。

「取締役会の懸念を喚起することがないように、私の給料がいくらであるかについては触れないという条件で、私は1回の契約で6か月間、デザイナーとして働くことに同意したんだ。ガラス工房でアーティストを雇うのは一般的ではなかった。私は月に250クローナの給料を受け取ったよ。ストックホルムの私のアパートの賃料が250クローナだったから、象徴的な額だね。最初の数年間は、思い出すと大変だったけど楽しかったよ」

彼は、会社とスウェーデンのガラス業界全体が拡大成長しているタイミングで、ボダ社で働き始めました。ガラスの世界は彼にとってまったく未知のものでしたが、彼はなるべく早く技術を習得しようと努力しました。誰かの邪魔にならないよう、夜にガラス炉に行き、ガラスを吹く毎日。隠れた努力家だったのですね。

「私は自分の信じたとおりにやっただけだ。私は頑固で幸運だった。また、私のアイデアは、常に経験豊富な職人たちとの実りあるコラボレーションによって補完されていたんだ」

1954年に、彼は初めて奨学金によるイタリアとギリシャへの海外留学に出発。古典的なラインや造形よりも、官能的なエトルリアやギリシア・クレタ島の文化により興味をひかれました。旅行の間、彼は真の貧困とはいかなるものかを見ました。そして、地中海での戦争で荒廃した土地における彼の経験は、彼に強い影響を与えたのです。

頑固で独創的な作品

ボダ社での1年を経て、エリック・ホグランの作品はスウェーデン国立博物館のガラスに捧げる大規模な展覧会にも出展されました。

順風満帆なように見えましたが、それから数年の間に吹きガラスの伝統とエリックの創造的なアイデアに反対もありました。時に、伝統主義者は抗議の声を上げました。たとえば、彼が気泡を作るために溶融ガラスの坩堝の中にジャガイモを投げ入れたとき、ボダ社の多くの人々はそれはやり過ぎだと考えたのです。

独創的すぎて反対も多かったようですが、彼の強い意思と、スタイルは人々を巻き込み、惹き込んでいきます。

スタイルの確立

エリック・ホグランは彼独自のスタイルを1950年代に確立しました。原始的な文化と民俗的なガラスアートに触発された作品は重く素朴で、鋭い縁やなめらかどこか母性を感じる様なまるみを持った印象です。人間や動物のモチーフが多くあります。

作品には、光に対して広く強化された着色ガラスを使用していました。カラフルで気泡が入っているのが特徴的です。

大衆向けの作品づくり

当初、エリック・ホグランのガラスは独創的すぎるゆえに、スウェーデンの市場は抵抗を示しました。しかし、ディレクターは、彼のガラスづくりを応援しました。大きな店舗での販売はできませんでしたが、ちいさなギャラリーなどに出展するようになります。

その後1957年に、おそらく世界で最も権威あるデザイン賞であるルニング賞を受賞しました。すぐにエリック・ホグランのガラスデザインは世界中の人々に認められ、スウェーデンの家庭の日常生活を著しく変化させたのです。

BODA社での10年後、彼は海外でも評価されていきます。彼はアメリカでは「ワンダーボーイ」と呼ばれているほどでした。

鍛治工と大工

1950年代、エリック・ホグランはガラスと鋳造鉄を組み合わせてデザインし始めました。そして1960年代、彼はガラス以外の素材を使って作品のデザインを始めます。地元の鍛治工や大工、石工をの人たちを雇い、シンプルで丸みを帯びた形状と、丈夫で飾らない雰囲気の作品づくりをしていきます。

その後彼は入社20年後の1973年にボダ社を退職し、自身の鍛冶場を始めました。

作品は施設にも

1950年代初頭から以降にかけて、およそ150の主要な公共の芸術作品を制作しました。教会や学校、そして他の公共建築物にある多きな壁面のガラス窓などを制作します。

彼の生まれ故郷カールスクルーナで、「Fiskargumman(漁師の妻)」は有名な鉄の彫刻です。設置された1992年以来、その彫刻はカールスクルーナの象徴的なものとなりました。地元を愛していたというのも彼のやさしい心の現れですね。

ガラスデザインに戻ってきたホグラン

エリック・ホグランは1980年代にガラスのデザインへと戻ってきました。このとき、彼はブーケベリ、トランスヘー、オーフス、ブリグスタッドといったスウェーデンの小さなガラス工房に向けて制作。もっともよく知られているのは、ストレムベリ・ガラス工房製のアートガラスです。

また彼はこの時期に国際的な活動の幅を広げました。1981年、アメリカのガラス工芸教育の国際的中心地であるピルチャックでガラスデザインを教え、未来にガラスを伝えていこうと試みます。1990年代初頭、彼はチェコ共和国ノヴィー・ボルのガラス工房用に着色ガラスをデザインしました。

病も芸術に活かす

「弱くなったエリックは、闘病中に色彩と芸術的表現がより力強くなるのかもしれません。病は色の爆発を必要とするようですね」

自身の病もを力にしてしまうエリック・ホグラン。その強い心とやさしさと、何よりの努力で人々を魅了しました。1998年に亡くなって以降もこうやって作品が支持されるのも納得です。